マズローの欲求階層説では、第4段階「承認欲求」というものがあります。つまり、他者から認められたい、尊重されたいという欲求。自分の存在をほかの人に認めてもらいたい、自分の考えをほかの人に受け取ってもらいたい。そして、尊敬されたい。先ほどもちらっと書きましたが、これこそがつまり「いいね」であり、そして「フォロー」なのです。
ただの承認欲と侮るなかれ。マズローさん曰く、この第4段階「承認欲求」が満たされないとどうなるか。そうなると当然、その上に位置する欲求の第5段階に達することが出来ません。では、その第5段階とは。「自己実現 欲求」自分の人生観に基づいて、あるべき自分の姿を発揮したいという欲求。つまり、クリエイティブな欲求。これこそまさに、人間にとって一番高次な欲求ですし、そして最も不可欠な欲求だと思います。今のこの現代社会の発展は、先人たちのこうした「自己実現欲求」の賜物であるといっても過言ではないのですから。
しかし、この第4段階「承認欲求」をパスしては、この素晴らしき第5段階「自己実現欲求」に到達することはできないのです。
だけど、あいにくこの社会は個々人にとって非常に冷たい世の中です。小学校で散々植え付けられた「思いやり」の美徳なんて、一部の純粋無垢な人々を除きおおよその人は単なる虚構、崇高な理想としか思ってません。本気にしてるやつなんてまずいません。そんな社会は、私たちがもってるささやかな「承認欲求」に気づき、それを上手くサポートしてくれる・・・わけないんです。何もしなけりゃほっとかれるんです。お前なんていてもいなくても同じだ、と。70億人いる中のたった1ピースが欠けるなんて、誰も気にしちゃいねえ。と。
だからこんな薄情な世界で生きていくために、何とかして第5段階「自己実現欲求」に到達して、歴史にその名を残すために。社会に居場所を築くために。私たちは、私生活の断片を切り取って、ちょっとしたコメントとハッシュタグ を添えて、広大なネット空間に放牧する。そして、「いいね」が付いたり、フォロワーになってくれた人がいたら、「私は認められてるんだ」という実感が湧いて、その瞬間第4段階「承認欲求」は満たされ始める。
もちろん、これも限度があります。あまりにもこの「他者からの承認」に執着してばかりいたら自分を見失ってしまいますし、自分の人生を「他者のために」生きる、なんていう最悪な(これが人生において最大の負け組だと思う)結末を迎えかねませんので、あくまで「ほどほどに」ということ。
そしてもう一つ。この第4段階「承認欲求」がある程度満たされたのなら、速やかに第5段階「自己実現欲求」に移ってください。そもそも私が「他者からの承認」を肯定的に捉えているのは、この第5段階で個々人がクリエイティブな才能を思う存分発揮し、世界を一歩でも前進させる、という目的があってこそですから。そうじゃなきゃこちらもただの虚構だし、虚しいだけだからね。
もちろんあなたがよほどの有名人じゃない限り、こうしてネット空間に放たれた私生活の断片が誰かの目に留まり、そして必ずしも承認される(=「いいね」が集まる)とは限りませんが。でも、みんなその可能性を信じているんです。・・・生きるために。
私はあいにく21世紀に生まれ、物心付いたときにはすでにインターネットが普及しており、小学生の頃には街行く人がみなスマホを持っている、という有様になっていたそんな世代なので分かりませんが・・・恐らく、2019年の日本は、50年前あるいは100年前と比べるとずっと生き辛い世の中になっていると思います。「ずっと」というと比較しているみたいに捉えれるかもしれませんが・・・もちろん50年前、高度経済成長期にだって100年前、大正時代だってそこに生きた人々はそこでまた何かしらの「ストレス」「理不尽」を感じていたはず。それと程度の大小を比べることはできませんし、むしろそんなことしたら傲慢だと思います。
だけど、50年前、100年前と比べると明らかに社会は「複雑化」していますし、何より「面倒臭く」なっています。そういう意味で私は、現代がとても生き辛いと感じたわけなので。どうか誤解なさらないように。
でもね、もうしょうがないんです。この令和元年、2019年に生きているんです。せっかく生きているんだから、この時代で少しでも人生を楽しまなきゃ損でしょ。そのために、溜まった膿を吐き出すために、ほかの人に認められて、そのうえでもっと自分の才能を発揮できるように。今日も私は、そして現代に生きる私たちは、スマホを開いて、顔も名前も知らない人に向けて、静かにシグナルを送る。そしてそれが、誰かに受け取られることを願って。哀しい現代人の性なのかもね。
2019.8.2