直方体の街 6

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 錆びひとつない清潔な黒鉄の梁に貼りついている無骨さの映像は、例えば仁王の像の、溢れんばかりの生命が滾るその口元に映るような勇壮さと、同列に解釈されがちではある。しかしその不鮮明な物体と彼の双眼を隔てる、ごく薄い絹布のような悲哀の存在を考慮する以前に、他の何者にも頼らない、つまりは実存として全く屹立した美の気配を見て取れるのは、苟も精神を疎かにして肉体の、即ち血腥い暴力の論理のみに支配されてしまった一青年の戯言ではあるまい。なぜならばそうした固陋さの裡にも、思索的な、――奥へ奥へと恰も廃鉱の煤けた坑を行く間際の気配りのような――憂鬱はそれ自体、如何ともしがたい形象と不可分なものとして化合しているからである。

 世間の常識によれば、翳は光が差し込んだのちに初めて生ずるものだといわれる。しかし執拗いようだがこの黒鉄は、一条の、どころか一粒の光の鉱物すらも必要とせずに、十二分な陰翳を充足できるのが、彼を大いに歓喜させているところである。(ああ、これは真に驚くべきことである!)しかし目下推移している空間、即ち平凡な霞みを行き交う個人へ当てつけるように充満させつつ、どうしたって認識されないほどの微細な塵芥や痛烈な銃創で飽和した、確固たる時間的空間の歩行は、そんなお伽噺にはとんと無頓着である。

 続いて映るのもやはり、クレパスで縁どられた荒漠たる陰翳ばかりである。しかし弁解しておきたい、以上のような言葉の弄びは決して意図したものではなく、彼(他でもない作者自身)の精神が外界からの無遠慮かつ非言語的な干渉に絶え間なく晒されていて、それの含むありとあらゆる明暗や芳香をほとんど吸収してしまうことに原因がある。何故ならば今年の少し早い梅雨入りは、既に御空を無粋な乱層雲で覆い隠してしまっていて、快晴の朝にはけざやかに理解できる、耳朶の袂に群がる海原や草原よりも、遥かに手近なものに思われるあの星屑を、残酷に消去してしまったからだ。

 読書子のご指摘の通り、この過大な質量を持った灯りの等級は、代数学では断じて表現できない。要するに、古代印度で空の思想なるものが生まれて来ない限り、そもそも主体の持ち得る語彙、つまり実定観念としての存在を允可されなかったのだ。真夏の昼の喧しい碧空が、細胞へ普く押し付ける紫外線との分節化が出来ないのである。そうした理由で、彼はほんに稚けない時分からずっと曇天を憎らしく考えた。しかし、憎めば憎むほど自然として、いな、少しばかり打算的な意思も働いて、防衛機制としてその山麓へ接近することを免れないのが情というものである。この因果は少年の短い季節に耳を削がれ、目を潰され、猿轡を嚙まされた挙句に確かと拘束され、劣悪な洞穴の壁面に上映された翳のみを、血の涙を流しつつ礼賛する日常に急き立てられていくようになった。

 ――意識が回復して、手元へ視線をやった時にはすでに遅い。注文したアイスコーヒーをカウンターへ取りに行ってからすでに十分以上経過して、グラスの表面にはざらついた、不分明な水滴が密集し、反動的な秩序が形成されていたからである。店は今日ほんのり冷えているけれども、上着を羽織っている客が一人もいないのは、なるほど時間帯があんまり純真すぎるからだろうと、軒先の名も無き花が――在ったのだ、もうじき花弁を散らそうとする、文化的な死を間近に控えた、至上に麗しき詰まらぬ花が......――屈託のない貌で噂をするのを聞いた奴があるのか知らん。

 そうしている間に彼はもう一つの印象を拵えていた。あんまり落ち着いている昼時に少しばかり喧騒を持ち込んだって好いだろうという、ほんに頓狂な、しかし度し難い心積りから起こったものである。こういう場合、決まって引き合いに出されるのはグリム童話の、恐らく銀の匙の類であろう。偶然に、彼もまたそれと面の重なる着想を会得したのである。

 ――もしもあの梁が腕に、豪傑な体毛のびっしり植わった逞しい前腕に化けていたとしたら。するとここに置き去りにされた翳は果たして影法師なのか、それとも器質、或いは形相そのものなのだろうかという疑いである。今度、前腕の所有者たる巨人は、百足のような静脈のけばけばしい拳を露出させ、産まれた瞬間からただの一度も呼吸をせずに、枯れながら沈黙してた裸電球を捻り潰そうとする。すると、その炎天下へ座るとある娘の長い金髪は、間違いなくむしり取られるであろう。刹那娘は皓々たる涙を産む。その涙は当然のように児になる。他方で、透き通った魂の表面からは、また群青の双葉が顔を出す。先刻の義拳で刻印された頭皮の火傷は、化膿することなく、しかしなお一層黒ずんで、犬歯を伴った紅い唇に変る。そこから揚がる勝者の微笑みは、紛うことなく女に与えられた至上の凱歌である。止めどない憎悪の大河は、彼女の足元のほかに縋る地位の無い、とある狼の児を酷く怖れさせた。児はその所為か、一度たりとも人間の髪へ触れることを許されなかったのだ。何故なら、彼が誰かの髪に少しでも触れようものなら、その髪はたちまちエスプリと水気とを一緒くたに失って、濁りきった焦げのような白髪へ、惨忍な化学変化を来してしまうからである。

 都会は寒いうえに皮肉である。これが当分、彼の慰みになるのだから。