「「本当にもう、どうしたらいいのかな」
彼がそう言うと、デジタルなこの空間に一陣の冷たい隙間風がレトロな硝子窓に吹き付けて、ガタガタと音を立てるのが、まるで弾かれた僕らを嘲笑しているかのように聞こえる。
「どうしようもない、ってことなんだろうけどさ」
でも、もう限界なんだ、という青白い吐息を胃の中に押し込んで。大体、気に喰わないのは本質的な問題じゃなく、やり方なんだ。皆と一緒に、
「手をつないで地獄へ堕ちる」
「そんな馬鹿な真似に取り込まれてたまるか」
僕の本能がそうやって叫んでいる。だけどその途端に、周囲の静寂が肋骨に沁みて、ズキズキと痛む。今すぐにここから逃げ出したくなる。抑えていた自我が暴発しそうだ。
「だけどさ、」
「顔の右半分だけは、いつも優しくいようとしたから。諾うことばっかりで」
そんなことしていたから、とうとう顔の左半分の居場所がなくなって、
「夜中に勝手に涙が溢れてくる」
もうそろそろこの村にも冬がやって来て、農家は幾分か重労働から解放される季節、朝の冷え込みは身悶えするほどで、心なしか感情まで黒ずんでしまいそうだ。そういうことなら、そういうことで、解決するのは時間の問題なのだから、ぼうっとして待っていればいいのだけど、どうやら話はそんなに単純じゃないみたい。
「耳が聞こえないんだ」
聴きたい音が、機械的なノイズに跡形もなく掻き消されて、どんなに耳を澄ませても何にも奏でられていないようで、せっかく生まれてきたこの世界は、畢竟こんなにも味気ないものだったのかと、ああ本当に、
「厭になる」
間違っているのに何で、間違っていることに気付いてしまう方が叩かれるのか、そういう地球に生まれてしまったのなら用は無い。だから、
「遊びに行こうぜ」
何の特徴もないドアの向こうで、姿を隠した彼は、あの頃と同じ音色で放つ。時間切れだ、と慌てて元の木阿弥になってしまった彼は、僕のたった一人の弁護士。
いつかみたいに窓の外は埃にまみれていて、せっかくの色彩がアイデンティティを封印している。金属のかじかむ音が手の甲を劈いて酷く痛む。犬の遠吠えが空気を揺らすと、それに呼応して僕の衰えた鼓動も力を振り絞って鳴る。鈴の音が、
「まだ生きていたんだ」
そう云うと頷いた気がして、
「まだ生きていたいんだ」
ちょっと顔を上げればそこは典型的な囚人の収容所だった。みんな同じ刺青を受けて、同じベルトコンベアーに載せられて、やっぱりつまらない生き方を詰められて、最期は同じガス室へ送り込まれる。こんなにも不遇を被るなら、根本的なところで間違っているとしか言えないだろう。
「別に失敗するわけじゃないけど」
「成功するわけでもない」
こういうパラサイトシングルの戯言を本気で受け止める奴なんて誰一人いない。でも、それを疑う奴だってここにはまた誰一人としていないから。結局は、
「同じことなんだろうな」
だからまた一回りして同じような夢を見る。だけど、
「せっかく生きてるんだ、楽しまなきゃ損、損」
って言ってスマホの電源を落とす。テニスコートの向こうにかかる太い虹が、そういう若気の至りな僕をより一層馬鹿にして、そして、鼓舞してくれた青写真を想い出して、
「だとしたら、合法的な逃避行も悪くないかもしれないな」
取り敢えず計画は実行していかなきゃ、その良し悪しは判るわけない。
「ここは、僕の、居場所じゃないんです」
そう呟いて、少しだけ軽くなったリュックサックを背負って、ベルの鳴るのと同時に看守の部屋を出る。ここから先が僕の本当。どうなるかは誰にも判らないけれど、だから、こんなんだから、
「ようやく人生は面白くなってくんだ」
きっと、生きている。」
という本当の話を隠して、僕は今、雑居房の隅で気配を消している。
2019.10
※前回同様、「即興小説トレーニング」に投稿した昔の作品から。当時通っていた高校の中にいよいよ居場所がなくなって、退学しようかどうしようかと逡巡して夜も眠れない日々を送っていた心境が如実に現れております。ほとんど私小説と言っていいかもね。